Bizread|株式会社ネオ倶楽部(旅のオアシス)|インタビュー記事
TOP企業検索 > 株式会社ネオ倶楽部(旅のオアシス)


波乱万丈の生い立ちで見出した天職・旅行業で「離島から日本を元気にしていく」
株式会社ネオ倶楽部(旅のオアシス)
取締役 副社長
戸田 慎一 氏
DATA
住所:福岡県福岡市博多区中洲5-6-24 
事業:旅行・レジャー業
設立:2000年12月25日
H P:http://www.tour-oasis.com/
気の荒い男が多くて争いが絶えない 一 方、活気はなくて笑顔の少ない町に生まれ育った少年。家庭不和が続く環境とも相まって破天荒な生い立ちを経験して、小学校6年生で「経営者になるしかない」と決断した。戸田慎一・ネオ倶楽部副社長は小学校時代は野球少年だったが、中学校でJリーガーと建築士の〝二足のわらじ〞を目指しながらも体を壊して、建築士に絞る。その後、高校時代に「人と人とをつなぐ」仕事を志す。そして、大学時代に弱点克服のトレーニングで始めた添乗員のアルバイトで天職となる旅行業と出会う。さらに30歳を目前に元の職場で出会った上司と一緒に「旅のオアシス」ブランドを手掛ける同社を立ち上げるに至った。
離島の魅力にこだわった『島旅』や地域活性化に取り組む『離島プロジェクト』をライフワークに日々精進を重ね、「離島から日本を元気にしていく」と力説する。
小学校6年生で経営者を志す
「私自身は元来、ネクラで引きこもりの性格でした」。今日の活発で冗舌な本人を知る者にとって驚きの告白をするのは、「旅のオアシス」ブランドで旅行業を手掛ける株式会社ネオ倶楽部の戸田副社長だ。
福岡県遠賀郡出身の戸田氏は、活気が無く、笑顔も少ないネガティブな幼少期を過ごし、家庭不和な環境で生まれ育ったと振り返る。気の荒い人間が多くて争いの絶えない日々で、「ありがとう」という言葉を聞いたことが無かったという。そんな毎日を暮らす中、小学6年生の時に子ども部屋を与えられることになった。ドラえもんに影響されていた戸田少年は「押入れを部屋にしてほしい」と大工さんに頼むと、普通の押入れを部屋に改造する様をみて感動した。そして、建築に興味が沸き大工さんの給料を尋ねると、50万円という答えが返ってきた。その金額は後々、仕事選びの指標となる。
小学校6年生ながら、既に月給50万円の使い道も考えており、うち10万円は母親へ仕送りすることを決めていた。その後、実際のサラリーマンの年収額を知って愕然となり、年収600万円を得るには「経営者になるしかない」と決断した。その第一歩は、建築士になるということだった。そして、経営者になるために人前でのスピーチやリーダーシップにも目覚め始めた。
人生の進路を左右した、 あの有名前都知事との出会い
 中学入学時がJリーグ開幕と重なり、小学校時代は野球に夢中だった戸田少年はサッカーを始め、「夢と感動」をキーワードにJリーガーと建築士の2つの夢を追いかけはじめた。
ところが、サッカー漬けの日々も虚しく腸炎と肺炎を患い、サッカーのできない身体になってしまう。このため、Jリーガーはあきらめて、建築士一本に絞って八幡高校へ進学した。
しかし、家庭環境の問題で高校2年時に母親と夜逃げするなど、困窮した高校生活を送ることになった。
在校中に開催された創立70周年式典である人物との出会いが針路を大きく変えることとなる。その人物は、同校OBとして招かれた舛添要一氏だった。舛添氏自身が世界との懸け橋になっている姿に感銘を受け、「人と人をつなぐということに興味を抱いた」。
そして、建築士を目指す理系だったが次第に経営者という道に向かって進み出すこととなる。
弱点克服で添乗員となって、 天職となる旅行業と出会う
一浪後に入学した西南学院大学において、人生のテーマとして最初に取り組んだのは、「コミュニケーション」だった。人前で話す練習法を先輩に尋ねると、返ってきたのは「スキーバスの添乗員になればいい」という答えだった。そして、その先輩が働く旅行会社の学生バイトとして、スキーバスツアーの添乗員兼インストラクターを担当したことが旅行業界との最初の出会いとなった。
当初、あがり症でまったくしゃべれなかったものの、努力を重ねて「昨日より今日、今日よりも明日がよくなるように頑張る」「最大のライバルは自分自身であり、今でも自分に《克つ》ためのチャレンジ精神を持ち続けている」とする戸田氏は不断の努力で克服した。
就職活動期はバブル崩壊後の氷河期であり、人気業界や花形企業からの求人は皆無に近い状態だったものの、「私自身は経営者になるという目的があったので気にならなかった」と振り返る。
経営者への第一歩となる業界選びでは、「ネガティブで笑顔のない家庭環境だったので、笑顔と感動をつくりたいという気持ちが強く旅行業か飲食業かで大いに迷った」。結果的に旅行業界を選んだのは、ある出会いからだった。学生バイトとして添乗したバスツアーのお客さまから「先生、また来たよ!」と言われた。それは 1年前にスキーを指導した方だった。帰り際に「今回も楽しかった。ありがとう」と、言われその言葉に感動して、旅行業界に身を投じることを決断した。
学生時代からバイトをしていた旅行会社に就職したものの、朝出社して翌明け方まで働く日々が続く。
入社時は手取り11万円で、3年間勤務しても年収180万円で、年収600万円は夢のまた夢だったため、転職した。しかし、転職先でも年収600万円は無理なことが分かり、独立を決意した。その際に学生バイト時代から親交もあり上司だった柳川敏昭氏(現ネオ倶楽部社長)と一緒に起業することになり、それぞれ社長―副社長となった。
人には一年に一度、必ず行きたくなる島がある
創業以来、会社は毎年、順調に業績を伸ばしていった。その中、こだわっているテーマが、「離島」だ。
離島向け旅行プランは従来、旅行業界においてハイリスクとみなされて、大手が参入しない分野でもあった。
「今日、ストレス社会にいる日本の若い子たちが、社会の荒波で心がつぶされる、そういう時代がやってくる。そんな時は、離島へ行ってリフレッシュしてほしい。人々が求めている癒しを大自然の中で得て、ゆっくりとした時間と人の温かみが心身の緊張をほぐしてくれる。それが『島旅』の魅力であり、『離島プロジェクト』として手掛けている」と力説する。
自身が離島の魅力に触れたのは、学生バイト時代に視察で訪れた壱岐で民宿〝勝丸荘〞を営むお女将さんとの出会いからだった。女将さんからの愛情いっぱいのもてなしに触れ、新鮮な魚介類を用いた郷土料理やエメラルドブルーの美しい海や満天の夜空などとも出会って、癒された。この感動がきっかけとなり日本全国の方々に〝島旅の素晴らしさを伝えたい〞と決心した。そして、大学生をはじめ、若者や一般の方々に広く壱岐の魅力を満喫してもらいたいと毎年、〝人生最高の旅〞づくりに挑む。
「今日、うつ・孤立・行き詰まり・苦悩・心配・恐怖・不安などで世の中が混沌としている。こうした中、旅を通じてリフレッシュしていただくことが、私たちのミッションだ」。
正に〝旅のオアシス〞と考え、「〝島旅〞でリフレッシュして、心をリセットさせて、自らをリスカバー(再発見)させて、リボーン(生まれ変わる)していくストーリー展開が可能だ」として、新たな構想を練る。 
いま、「人と人をつなぐ」をテーマとした旅行サークル「旅の輪・九州」を立ち上げて活動している。具体的には、毎月のユーストリーム放送による九州各地の人・食・風景などの紹介動画配信、そして、旅先で撮った写真のSNSアップによる交流拡大だ。一連の取り組みは2014年度、中小企業庁『がんばる中小企業・小規模事業者300社』に選ばれた。
「日本を元気にするのは離島からだと思う。離島から日本を変えられるのではないか」と、従来の「旅の輪・九州」の枠を飛び越えて、日本の離島を元気にする「旅の輪・日本」を構想する。その布石として『日本離島会議』を年内にも立ち上げる予定だ。