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人と人を繋ぐ学びのプラットフォームで
人材育成と次代のサービスを創造する。
TAO ㈲トータル・アジアン・オーガナイゼーション
代表取締役社長
林田 暢明 氏
DATA
住所:福岡県福岡市中央区清川1丁目8番8号
事業:地方創生・コンサルティング・コラムニスト・飲食店経営
設立:2004年00月00日
H P:http://tabelog.com/fukuoka/A4001/A400103/40005761/
平成17年、地域における“ビジネス・プラットフォーム”のモデル事業を目指して創設された【TAO】を運営する林田氏の元には、行政・メディア関連をはじめ、起業家・ビジネスマン・学生など、多くの人間が足繁く通い、またその「学び舎」に集う。しかし一方で、同氏の活動拠点は福岡エリアのみならず、総務省地域資源・事業化支援アドバイザーや、福島県南相馬市の教育復興基本計画策定委員会の副会長を務めるなど、その経験とスキルを持って、実に様々な地域の案件を多く抱えながら雄飛する毎日を送っているのだ。何故、人は彼を求め、その“場”に集うのか?林田氏の歩んだ軌跡と、「志」にその答えがあった。
日本銀行における様々な経験と人生の転機となった「ある人物」との出会い。
大学を卒業し、私が日本銀行に入行したのは、「就職氷河期」と言われる2001年でした。
入行後、私達新人の特定総合職は、全ての部署を経験した後、配属先が決まるのですが、最初の登竜門は金庫でひたすら銀行券を数えたりする部署で、圧倒的な現金の塊を眼前に、毎日9時から5時までお金を数え続けました。通常、1000万円を数えるのに50分程時間がかかりますが、これを15分で数え終わるようになるまで次の過程に行けず、数百億のお金を見て瞬時に判断し、電卓で打って数える事ができるよう、ひたすら訓練が続きました。
今から思えば「お金の単位に慣れる」という、銀行マンにとって必要不可欠の習得過程であったと思いますが、その部署の過程が終了し、別の調査部等に行くと、不思議と国家予算レベルの数字が読め、判断できるようになっていました。この経験は、現在、自治体のアドバイザーをする際に「数字への強さ」として活かされる事が多くあるように思います。
しかし一方、自分自身が日本銀行で仕事をする事に、徐々に限界を感じ始めていました。
監査の仕事では、経験を積んだ年配の事業者が企業存続と商品の可能性をどんなに力説も、“NO”と切り捨てなければならない事も多々あります。それを何度も何度も繰り返すうちに「こういう政治はおかしいのじゃないか?」と強く疑問を感じるようになりました。
その頃私は、政治が盛んで多くの総理・大臣経験者を輩出した岡山に赴任をしており、ある日、今の政治の実状が知りたくなり、選挙間際の集会所に講演を聞きに行きました。
そこで初めて声を掛けてくださったのが、今はお亡くなりになられた、橋本龍太郎氏だったのです。
地域のお年寄が集まる中、身長が190センチのスーツを着た若造はかなり目立っていたでしょうし、また歯に衣着せぬ発言が珍しかったのか「お前、面白いヤツだな」と言われ、後程、橋本氏の事務所に呼ばれる事になりました。
「これは絶対に怒られる」と、不測の事態を憂えていたのですが、お会いした橋本氏は開口一番「君は何をしたいんだ?」と私に質問をされたのです。
私は、もう言うしかないと、今仕事で感じている事、不条理な世の中の仕組みや政治に対し、思いの丈をあるがままに述べたのですが、それに対する橋本氏の言葉は、私には予測もし得ないものでした。「君は政治の道にいくべきだ」と。これがまた私の転機となったのです。
松下政経塾の塾生として過ごした葛藤の日々と「決断」の時
日本銀行を退職し、私は松下政経塾の試験を受け、入塾する事になりました。
創始者の松下幸之助氏は、日頃より塾生に対し「宮本武蔵になれ」という事を述べておられ、それは塾がただ政治家を輩出する事を目的とした場所ではないという気持ちの表れでしたし、また「宮本武蔵には先生はいない。だからここには先生=師と呼べる人間はいないのだ。」とも説きながら、自ら修行をし勉強をしなさいとおっしゃったそうです。
私はその教えに忠実に、まず1年目は座学で憲法などを学び、残りの2年は武者修行の旅に出る、というマイペースな感じで多くの知識と見聞を拡げ、実際に学びの期間中は選挙活動にもあまり参加せず、ひたすら自分が学ぶべきものを求め、NPOやソーシャル活動などにも積極的に参加をしておりました。
そんな自由な私の有り様は、周りから見ると異端児に見えたでしょうし、政治家をひたすらに目指す事を目的とする方から見ると、かなりアウトローな姿勢だったかもしれません。そして履修が終わる最終年に、紆余曲折があり、今後の将来を選択しなければならない時期に近づいた時、最終的に「政治の世界には進まない」と自ら決断をしました。
勿論、周りの政治家や諸先輩方の中には、幅広い見識をもった尊敬すべき方も多くいたのですが、一方、政治以外の事に目が向かない方もまた結構多くいらっしゃった。若かった私は、そこに圧倒的な“違和感”を感じずにはいられなかったですし、その状況下の中、私が政治家になって、一年生議員として仕事に取り組むことが、「目指すべき事を成し遂げる」ための本当の近道なんだろうか?と思うと、どうしてもそうは思えなかったのです。
日本銀行で所謂、官僚的な世界に近いものを3年経験し、松下政経塾で政治の世界を至近距離で3年見たときに、「やっぱり自分で何かを始めてみよう」と決断し、在塾中27歳の時に、【TAO】を作りました。しかし、松下政経塾に入って政治家を目指さない、という人間はいないでしょうから、その決断は、周囲を驚愕させ仰天させることになり、様々な角度から当然の如く“常識”を強く突きつけられ、戒められる事もありましたが、その当時の私は、そう意思決定する事が最善だと思ったわけです。生意気な若者が政治という道を選択し、最終的にはその道を歩まず、別の道を模索する結果となった、という事ではありましたが、やはり社会通念上、何もなかったかのようにリスタートする訳にはいきません。その後、自ら実家で謹慎をする暗鬱な日々を過ごしした。
しかし、今になれば、日本銀行と松下政経塾での6年間の経験は、とても希少で感謝するべく事も大変多かったですし、また在塾中に「志をもった仲間」との信頼関係も築け、今でもその大切さを実感しています。
そして「人生の同志」を持つ事は大変重要で、これが自分の仕事の根幹となり、そのお陰で今の【TAO】がある、と強く認識しています。
東日本大震災の復興支援事業を通して、新たな絆=エンゲージを未来に繋ぐ
2011年、東日本大震災のほぼ2週間後、現・武雄市長の小松氏と私を含む4人は、南相馬まで2トントラックで物資を運んだのですが、現場に到着しその惨状を見て「これは自分のスキルではどうしようもできない」と途方に暮れ、帰途に着きました.
しかし、一時して、その後東日本復興財団に出向した小松氏から、手伝って欲しい、何かアイデアを出してくれと電話があったのです。
当時、東北を復興するまでには、50年・100年かかると言われ、現状はどうしても今の保証やお金のことが優先的に議論されていました。
しかしそんな時だからこそ、長期ビジョンを策定する事も大変必要で、どうすればいいのかを突き詰めた結果、これからの次代を託され、50年後にそのまちに生きる子どもたちなら、きっと未来を見ようとするのではないか、そして今こそ彼等に意見を聞く事が必要なのではないか、との結論に至り、「子ども未来会議」という企画を提案したのです。そうすると、その提案がどうやら文科省が実施しようとしていた事に近いという事になり、文科省の管轄である「双葉郡子供未来会議」で、田坂逸朗氏とともに、2012年から2年間「双葉未来学園」をつくるための活動が始まりました。
会議を始めた当初は、正直、怒号しか飛びませんでした。 「皆さん、他の学校で間借りをし勉強している状況を脱し、新しく統一する高校を作っていきましょう」と呼びかけても、「今の生活・保証はどうするんだ!?」という事に終始してしまいますし、ましてや、子どもにこの状況を脱する意見なんてどうせ出せないだろう、とこの試みに賛同しない意見も多くありました。
しかし、小学1年生から高校3年生までの120人が集まった第一回目の会議で、彼らは本当に立派に話をし、大人達に大きな希望と気付きを与えてくれたのです。
私は今でも小学3年生の子どもが話してくれた内容を、鮮明に覚えています。
「僕は、僕のまちに30年間帰れないってことを聞いてます。だから僕は、30年後あのまちに帰って復興させるために、学校の先生になりたいと思います」と。
子どもなりにあの震災から立ち上がる術をすでに考え始めている訳で、その言葉を聞いた大人達はハッと我に返り、復興における一筋の希望の光を見出すことができたのです。
その第1回の会議を皮切りに、話し合いは試行錯誤の中何度も続けられ、私達は会議が炎上しないように進めていくために、進行のタイミングや会議中に流すBGMや演出まで、慎重に吟味し、会議を続けました。そんな時に、今度は南相馬復興大学からお誘いをいただいて、そこにも通いだし、地域のサービスエリアに置く商品開発に携わったりしていると、縁とは実に不思議なもので、南相馬復興会議の会長をされていた早稲田大学の先生が、総務省に通じておられ、「総務省のアドバイザーをやってみたらどうか」と声をかけてくださり、新たに東京で総務省のお仕事もさせて戴く事となり、現在も引き続きその仕事を行っています。
すべき事・すべき場所にこそ、自分の存在意義と役割がある
振り返れば、これまでの様々な経験と人とのつながりがあり、それがご縁となってお仕事をいただいているのですが、その中で自分の強みはいったい何かと考えますと、やはりプロデューサー的な「統合力」を求められている気がします。
何故ならば、世の中は細分化されすぎて、ディレクションはできてもお金はないとか、またその逆もしかりという風に、短期的・長期的な観点で設計図を作る人間が少ないような気がしますし、この社会全体の分業化により、大企業でさえも変化に弱い部分があるというのは、一抹の原因であるかもしれません。現在、私は福岡で【TAO】を運営・経営しながら、かなり多方面に渡った仕事をしているのですが、フリーという事は「生活も安定しない」という事に繋がり、それを心配される時期もありました。
しかし、私はむしろ「不安定でい続けたい」と思っています。これは、傍から見れば逆説的かもしれませんが、そういう状態を保っていなければ、いつ何時に、またどこかの場所に即座にアクションを起こす事ができないのです。
勿論、家族もありますし、福岡と東京の二重生活も余儀なくされ、加えて他のエリアにも飛び回る毎日ですが、それでも、自分自身はいつでもどこでも動ける状態でありたい。
自分の生活圏だけで仕事をするのではなく、自分のすべきこと・すべき場所に自分のやるべき仕事がある、と思っていますし、そこに自分の存在意義と役割があるのだと実感しているのです。